先生のこと

あれから4年ぐらいたったのかと思っていたけど、
もう少しで丸3年か。。

先日、ギャラリーの代表の方より電話があり、
先生が亡くなる直前に私に話していた作品を
美術館に入れるという事がようやく実現した。

私は先生とずっと長い間疎遠で、
ほんとうに変なきっかけでギリギリになって会いにいって、
何故かそんな重要な任務を託された。

もっと他に親交の深かった人や熱烈に先生を慕っていた人が
たくさんいたと思うと、私で良かったのかととてもナーバスになる。

私は25年近くずっとずっと疎遠だった。
だけど、先生の私の人生への影響は計り知れない、
無くてはありえない、そんな存在だった。

私は過去の事をとっても忘れっぽいたちで、
子ども時代の事も何でも断片的にしか覚えていない。
でも、強烈に残っているものがある。

わたしは小学生か幼稚園のまだ小さな頃に
先生の教室に預けられた。
泣いてばかりいる私を膝の上に乗せて、
画用紙に直接絵の具を絞り出して半分に折るという事をさせてくれた。
それがとっても驚きで、絵の具がにちゃ~っとなって両方に写るという感触を覚えている。

先生は思想家でもあった。
小学生に絵を見せた。
たしかダリの絵だったと思うけど、
強欲に食べ物を食べている人間がうんこをしているという絵だった。
「人間はウンコ製造機や!」
そう言った。

先生の山の家に遊びに行った時、
歯磨き粉の話をされた。
「歯磨き粉は磨いた気分になるだけでしっかり磨けないから使わない方がいい」
なるほど、そうなのか。

先生の絵の指導で小学校5年生か6年生の時、
自画像のアゴのラインには下からの色が反射して写っていて
端っこは黒くないという事を、私の顏の下に紙をあてて教えてくれた。

基本的にこのように描きなさいとか直接的に技術を指導するという事を
しない先生だったと思う。

母が亡くなった翌年ぐらいに名前は無かったけど
年賀状をもらった。たぶん先生だと思う。
「どうしているか?」みたいなメッセージの版画だったと思う。

病室で私の母のエピソードを話してくれた。
先生の山の家の裏に春菊(だったかな?)を植えていたそうなんだけど、
私の母がそれを知らずに、見つけて喜んで片っ端から抜いてしまったという話。
母はちゃっかりしている。

目に浮かぶなぁ。

先生の作品は大きな立体物。
私は美術評論家でもなく、美術品には興味も薄い。
が、好きな物はある。
そしてストライクゾーンは限りなく狭い。

先生の作品はどんなものか、再会するまで知らなかった訳だけど、
私の好きな感じだった。
先生の山男的なイメージからは想像出来ない意外な雰囲気だった。

途方も無くダイナミックで、かつ緻密に計算された、
しかし華美ではなく、それでいて美しい。

近いうちに展示されるかもしれないと言う事だから、
それまでは健康で元気に、楽しみに待っていよう。

子供時代の大切な経験

「すぐ連絡くれ」
というメッセージを2009年12月22日に発見した。
メッセージが書き込まれた日付は2009年の3月。
もう1年近く経過している。
なんだか、今すぐになんとかしないといけないという気持ちになって落ち着かなかった。

一昨年の2008年夏頃に、娘になにか習い事を・・・と思った時、自分の子供時代に体験した土器作りや版画、油絵、水彩のことを思い出した。

なかでも竪穴式住居を実際に作るという、滅多にできない体験した思い出はいつも自分に力を与えてくれていた。

先生は今どうしているんだろう。

私が教室に通っていたのは小学6年生までのおよそ6年間。

ネットの時代になったから何か情報があるに違いないと思いつくキーワードで検索したら、ある新聞記者のページにたどり着いた。

そこで初めて知った。

先生はその作品が美術館に永久展示される様な偉大な方だった。

同じ教室の出身者の方が、記事に対して書き込みをしていたので、思い出がこみ上げて私も書き込んだ。
すぐに反映されなかったので、何日かチェックしたら反映されていた。
それからはそのページを見る事も無かった。

それから1年以上経過した、この前の12/22にお正月の和凧の話題になり、そういえば凧も作ったという話からまた先生の事を検索した。

そして、私の書き込みの後に先生のメッセージを発見したのだった。

「すぐ連絡くれ」

すぐ連絡するといっても、今となっては電話番号も住所すらもわからない。
胸騒ぎもする。
すぐに父に電話して聞いてみたが父もわからないという。
ご自宅の位置はかろうじてわかったので、とにかく行ってみる事にした。

その日は祝日前で夕方に外せない仕事が有ったため、
翌日朝にすぐ出発した。

1時間ちょっとかかって到着し、付近の方に先生の自宅の位置を確認して訪ねたが、ひとけが無かった。

手紙を残すかどうか迷ってしばらく座っていたけれど、名前(旧姓)と名刺を手みやげと一緒に残してその日は退散した。

気になったけど、また後でじっくり手紙を書く事にしよううと自分を落ち着かせた。

その日の夕方、先生から電話をいただくことができた。
「まみかぁ?」
「お元気ですか?」
「いやぁ、いま入院してるんや」
その日は外出許可を得てたまたま自宅に戻ったらしい。
「あいたいわぁ」
<私も会いたい!>
次の日病院に行くと約束した。

大きな病院は面会時間が決まっている。
朝一番にでも押し掛けたい気分だったけれど、午後から病院へ向かった。

この病院でいいのかどうか不安を感じながら病室へ向かった。
先生はちょうど治療中で不在だった。

とにかくようやく会える。

1時間ほど待って先生に会うことができた。

25年ぶりくらいだろうか。
私が子供の頃の先生のイメージはインデアンとかヒッピー風で怒ると怖い厳しい先生というものだった。
少し顔がほっそりして、しゃべり口調は柔らかだった。

ちょうど私と同期の女性のTさんが来ていた。
しばらく話していると、少しずつ記憶がよみがえって来た。

あまりにも時間がたちすぎた再会で何を話していいのか戸惑うばかりだった。

次の土曜日に山の近くの先生の自宅で教室が開かれるということで、娘をつれて参加した。

到着した時には、木の家や遊び場にかこまれた広場でお母さんと子供たちみんなでおでんを作っていた。

午前中は木で組まれた家(やぐら?)にのぼったり、崖にのぼったり、木材を切って火にくべたりして遊んだ。

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午後から先生が到着して、凧作りの骨組みの校庭が始まった。
娘も和紙に墨と染料で絵を描かせてもらった。
娘は和紙に色をぬるより手に塗る方がおもしろかったらしい。
手がカエルの様に緑色に染まった。

Tさんから、先生のメッセージを書き留めたものをいただいた。

先生は子供と社会を見て、子供と社会の為にずっと長年、力を注いでこられたんだなぁと改めて思い知らされた。

比べる事自体おかしいけれど、自分の生き様と先生の活動とを比べたとき、
何もできていない自分がもどかしい。
まだまだ私にもできる事があるはず。
先生と全く同じ事はやろうと思ってもできない。

これから、できる事を探して行きたいと強く思った。

追記:先生はこの後、2010年1月20日に亡くなられました。